2016年11月21日月曜日

ジェイムズ・エルロイ『獣どもの街』、日本のラップにおけるライミング

ジェイムズ・エルロイによる中編小説3作を1つにまとめた『獣どもの街』を読んだ。これが素晴らしい作品で、久々に小説というフォーマットの面白さを体感できた。エルロイというと今年、太平洋戦争開戦直後を描いた長編小説、『背信の都』を発表している。が、こちらは「暗黒のLA4部作」や「アンダーワールドUSA3部作」と比較すると、なんとも中途半端な出来というか、はっきり言って物足りなかった。ちなみに『獣どもの街』に収録されている3つの作品は、アメリカでは2004年に、日本では2006年に発表されたものだ。この3つの作品はいずれもリック・ジェンソンという刑事とドナ・ドナヒューという女優との間に起こる事件を描いたものだが、正直なところ物語のプロットはそれほど重要ではない(いや、プロットも面白いことは間違いないのだけれど)。これらの作品の魅力は、台詞以外の殆ど全ての文で頭韻を踏んでいるという、特異な文体である。例を挙げてみよう。「押し込み強姦魔」(これまた凄いタイトルだ)という作品の冒頭は、以下のような文で始まる。

あの世は味わい深い。時は飛び、とばっちりを食わせる。肉体は握りつぶされ、日常は苦々しいものとして認識される。ひとは引き止められ、過去を顧みさせられる。

1文目は「あ」、2文目は「と」、3文目は「に」、最後は「ひ」と「か」で頭韻を踏んでいる。このような文が、3つの作品全編を通して貫き通される。こんな小説、というか文章はこれまで読んだことがない。原文は当たり前だが英語なので、これを日本語で同じく頭韻を踏んだ形で再現するのは至難の業だっただろう。訳者の田村義進氏の苦労は察するに余りある。

頭韻を踏むということで生まれた長所は、常識外れの文体の小説を生み出すということだけに留まらない。とにかく、読みやすいのだ。内容が頭に入らないくらいの猛烈なスピードで読み進んでしまう。韻文に限らず、文学や詩の歴史の中で生き残ってきた様々な方法論や形式には、やはりそれなりの理由があるということだ。

これを踏まえて最近発表された日本のラップを聞いてみると、この韻律(要はライミングだ)の部分が非常に貧弱。トリッキーなフロウやトピックのラップは多く存在するが、韻律が弱いためどこか締まらない印象を受ける。逆に韻律が固いのは、95~96年、「さんぴんキャンプ」が開催された頃の作品だ。YOU THE ROCK AND DJ BEN『TIGHT BUT FAT』なんかは、買った当時よりも今のほうが遥かにフレッシュに聞こえる。一部のラップ愛好家が狂信的ともいえる姿勢でライミングを重視する理由も、エルロイのこの作品を読んでみて、初めて理解できた気がする。


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