2016年12月8日木曜日

ネット上に乱立する、個人による「年間ベスト」への違和感

Twitterを始めて6年以上経つけれど、その当時からこういう風に年間ベストを個人で発表している人がいる。「一億総評論家時代」の分かりやすい例だ。こういうのを見ると無性にモヤモヤする状態がずっと続いていたけれど、音楽雑誌がまだ辛うじて存在していた頃なら、そうした権威へのカウンターとして個人の年間ベスト・アルバムなりトラックなりを提示するという行為にそれなりの意味は見い出せた。ただ、権威それ自体がそもそも崩れ去ってしまった現状で、無名の「年間ベスト」の集合体に、どのような意味があるだろう。

そもそもライターや評論家といった人達は年間何百もの音源を聞いている中で10~20枚といった数の作品を選ぶからそこに説得力が生まれるのであって、素人が50枚程度聞いた中から20枚選んだとしても、それは本当に価値あるものだろうか。そもそも何十枚という少ない母数の作品の中で、これから何年も聞かれる作品がどれほど存在するというのか。

それにこうしたベスト・アルバムやトラックといったものは、その年が音楽史的にどういう年だったかという問いへの答えを発表する場であるはずで、ただ単に好きな作品を上から順に並べれば良いというものではない。例えば、ボストンにReksというラッパーがいる。Reksは今年『The Greatest X』というアルバムを発表した。通算10作目という節目のアルバムに相応しく、CD2枚組、全35曲、合計時間2時間超えの大作だ。私はこのアルバムが大好きだけれども、もし「2016年の年間ベストアルバム」を作るとしたらこのアルバムはそこには入らないか、入っても順位は下の方にならざるを得ないだろう。なぜなら、このアルバムを評価するのに「2016年」という因数は入らないから。「2016年」のラップのアルバムを入れるなら、個人的にそれほど好きではないけれどRae Sremmurd辺りの方が余程妥当だと思う。ネット上で作られ発表される無数の「年間ベスト」に、このような視点が入っているものがどれ程あるのだろうか。

自分ではこうした「年間ベスト」を作る気はない(もう随分前から、こうしたものを作る意義を見出せない)けれど、どうしても作るという人がいるのなら、ただの作品名の羅列ではなく、きっちりとしたコンセプトがあるものが見たい。その方がおそらく作る人にとっても有意義なものになるはずだ。

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