2017年5月14日日曜日

映画『ファイト・クラブ』と「alt-right」、そしてラストシーンに関する考察


少し前に『ファイト・クラブ』について話題になっていた記事。以下、引用。

" 最近また観返してみたのは、ここ1年ほどでメディアの俎上に上がっている「alt-right」などを含む「新反動主義者」たちの一群に、『ファイト・クラブ』の影が見えるという記事を読んだのがきっかけだった "

映画をおそらく30回以上観ていて、原作の小説も持っており、台詞も引用できるほどには熱烈なファンである私の政治信条は、「alt-right」とはかなり異なった立ち位置にいる。だが、この手の連中が『ファイト・クラブ』に共感するのは、実はとても分かる。あの映画は、生きる意味を見失い、自らを「去勢された」と感じているような「男」たちの断末魔の叫び声であるが、また同時に世の中に対して変化を求める人々の物語でもある。変化には当然良い・悪いがあるが、とにかく変化を求める人々にとっては、おそらく変化の中身は重要ではない。変化が起こることこそが重要なのだ。ele-kingで野田努さんかブレイディみかこさんが言っていたが、イギリスでは、パンクの登場がサッチャーの台頭を招いたのではないかという説があるらしい。これと正しく同じような構図で、『ファイト・クラブ』にシンパシーを抱く層が「新反動主義者」となり、トランプのような人物を支持するようになったのだろう。

こうした本筋の部分よりも気になったのは、映画のラストについての文章。以下引用。

" それにしても散々マッチョを煽っていたなか、Where Is My Mind? という自意識満載の問いに回帰してしまうのはなぜなのか "

原作と映画両方の熱烈なファン(しつこい)である私にとって、あのラストシーンが発しているメッセージは、もっと無責任でいい加減なものに見える。記事中では触れられていないが、映画ではこの「Where Is My Mind?」が流れる前に、サブリミナル的にチ〇コの画像が挿入される(レーティングされているレンタルのDVDなんかだと、ひょっとするとこの部分はカットされているかもしれない)。この動画でも映ってないけれど、コメント欄が「チ〇コが映ってねえじゃねえか!」で溢れている笑。



これは、ブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンが仕事の一つである映画館の映写技師をしている間に、上映されている映画にポルノ映画のフィルムの一コマを差し込むイタズラを本編で再現しているものだ。このシーンの有無で、映画の発するメッセージは大きく変わる。

この一見くだらないシーンが何を意味しているか。韓国の名匠キム・ギドクの言葉を借りれば、「映画は映画だ」ということだ。反物質主義を掲げ、資本主義社会の崩壊を目指し、クレジットカード会社のビルを根こそぎ爆破する過激なシーンの後で、「これはあくまで映画ですよ~」とゲラゲラ笑いながらそれまで散々煽ってきた思想をぶん投げるのが、このシーンなのだ。行き過ぎた悪ふざけに対し自ら冷や水を浴びせるのが、画面いっぱいに映し出される特大のチ〇コなのだ。そしてこの後で、「Where Is My Mind? (意訳:オレは一体何考えてるんだろう)」が流れる。これは、もはや内省的でも何でもなく、チ〇コに続いて畳みかけるように映画を締めくくるギャグでしかない。私はこの痛快な終わり方に何回も笑い、ある種の感銘も受けた。

別人格を作り、男共が殴り合う(より正確には「殴る」よりも、「殴られる」ことの方が重要なのだが)クラブを創設し、次にテロ集団を組織し、既存の社会を木っ端みじんに吹き飛ばすという大風呂敷を広げておきながら、最後はそれをあざ笑うように観客を置き去りにして立ち去る。この悪趣味な演出を見る限り、今作を撮っていた頃のデヴィッド・フィンチャーは全くもって食えない男であり、また同時に、そうした表現が許された時代でもあったということだ。今後これほど無邪気で、且つ無責任な映画が作られることは、おそらくない。


0 件のコメント:

コメントを投稿