2017年5月21日日曜日

塚本晋也『野火』

今では『シン・ゴジラ』の間教授、そして『沈黙』のモキチ役を演じた役者としての方が知名度があるのだろうか。Netflixにて、塚本晋也監督の諸作品が配信されている。しかも、去年Blu-rayにて発売されたニューHDマスター版である。『鉄男』も『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』も『東京フィスト』も『バレット・バレエ』も、最高の画質と音声で堪能できる。塚本晋也作品に興味のある方は、この機会に是非鑑賞してもらいたい。

Netflixではこうした過去作品と同時に、監督の最新作である『野火』も配信されている。昼間のマンションにあまり人の居ない時間帯を狙って、自宅にてセルフ爆音上映。鑑賞自体が劇場公開時に渋谷のユーロスペース以来(過去作品との併映+監督によるティーチイン付き、なんと豪華な興行!)になるが、今回改めて観てみて、ようやくこの映画を理解できた気がする。

大岡昇平による原作『野火』を読んだ方は分かるだろうが、この作品の元々の見せ場(読み場、と言うべきか)はカニバリズムではなく、むしろその後で田村一等兵が戦争での一連の行為を再解釈する場面だ。この場面は正に小説というフォーマットでしか成しえないものであり、塚本晋也版が公開された際は、この場面をどのように扱うのかが自分の中で映画が成功するかどうかの重要なポイントだった。だが、そもそもそれ自体が間違いだったと、観直してみて気付いた。原作とほぼ同じような展開を映画もたどるが、あくまで原作は原作であり、映画は別の独立した作品として観るべきだったと今では思う。

塚本晋也版『野火』にて、主人公の田村一等兵は徹底的に観察者として描かれる。そして田村一等兵の目の前で繰り広げられるのは、戦争という名の、人間が行う考え得る限り最悪で残酷な行為の集合であり、またそれと対をなすようなフィリピンの美しき緑の大地、海、そして青空なのである。「なぜ大地を地で汚すのか」という映画のコピーは、簡潔にこの映画の本質を捉えている。原作にある文学的な仕掛けは一旦忘れ、映像で一兵士が体験した戦場をどれだけ忠実に表現できるかという点を重視したのが、塚本晋也版『野火』の肝ではないだろうか。モノクロである市川崑版の『野火』にはない美しさと醜悪さが、この映画には溢れている。

惜しむらくは、インディペンデント映画である本作の予算の都合上、国内でロケが行われたという場面が、観ている側からも何となく分かってしまうことだろう。観ている側でさえそうなのだから、製作側からすれば、これがどんなに悔しいことか。もし全編オールフィリピンロケができるほどの潤沢な予算で撮れていれば、どのような作品になったのだろうか。未だに太平洋戦争をまともに描くことを躊躇する日本の映画製作会社は、猛省すべきである。


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