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2017年5月31日水曜日

デヴィッド・ミショッド×ブラッド・ピット『ウォー・マシーン:戦争は話術だ!』

「PLAN B」というと、最近ではオスカーを獲得した『それでも夜は明ける』『ムーンライト』を作ったように、高クオリティ且つエッジの効いた映画を作る優秀な制作会社、というイメージが一般的にはあるように思う。一方、自分の中では、「ブラピが自分の意見をゴリ押したオレ映画を作る会社」というイメージの方が圧倒的に強く、それは信じられない程かったるく、まどろっこしい映画だった『ジャッキー・コーガン』を劇場で観てしまったダメージを未だに引きずってるのが大きい(観た当時は事故にでも遭ったかと思った)。ブラピは『それでも夜は明ける』『マネー・ショート 華麗なる大逆転』でしれっと美味しい役をかっさらってるけど、まだあの程度ならプロデューサー権限という名目で許せる範囲。

『ウォー・マシーン:戦争は話術だ!』に関していえば、これは正に『ジャッキー・コーガン』直系というか、ブラピの思想が映画が始まってから終わるまでずっと画面に滲み出ている、久々のオレ映画。アフガンに赴任した米軍指揮官を通してアメリカという国の傲慢さを批判しまくるものの、この映画を観る人の多くはおそらくアメリカのそうした姿勢をもう既に嫌と言うほど知っているし、しかもそれを2時間ひたすら主張され続けると、さすがに辛い。ブラピが指揮官であるマクマホーン将軍を、アメリカの傲慢さの象徴としてピエロのように演じ続ける意図もよく分かる。それでも、キツいものはキツい。

じゃあ見どころが全くないかと言われれば、そうでもない。邦題に「戦争は話術だ!」とある通り、アフガンという戦場を巡っての政治的な駆け引きを含めた「会話劇」としてこの映画を観てみるとなかなか面白いと思うし、マクマホーンのチームのメンバーは、皆キャラクターがよく立っていて、観ている方を退屈させない。そして軍の高官や政治家が交わす机上の空論だけで映画を終わらせるのかと思いきや、最後には対テロ戦争の現場を見せることで、戦争映画としての筋も通している。この辺りは、『アニマル・キングダム』でも同じく監督・脚本を務めたデヴィッド・ミショッドの手腕だろうか。正直、観ていてかなり上手い監督だと思った。もし、ブラピのオレ主張がなければ…。




2017年5月21日日曜日

塚本晋也『野火』

今では『シン・ゴジラ』の間教授、そして『沈黙』のモキチ役を演じた役者としての方が知名度があるのだろうか。Netflixにて、塚本晋也監督の諸作品が配信されている。しかも、去年Blu-rayにて発売されたニューHDマスター版である。『鉄男』も『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』も『東京フィスト』も『バレット・バレエ』も、最高の画質と音声で堪能できる。塚本晋也作品に興味のある方は、この機会に是非鑑賞してもらいたい。

Netflixではこうした過去作品と同時に、監督の最新作である『野火』も配信されている。昼間のマンションにあまり人の居ない時間帯を狙って、自宅にてセルフ爆音上映。鑑賞自体が劇場公開時に渋谷のユーロスペース以来(過去作品との併映+監督によるティーチイン付き、なんと豪華な興行!)になるが、今回改めて観てみて、ようやくこの映画を理解できた気がする。

大岡昇平による原作『野火』を読んだ方は分かるだろうが、この作品の元々の見せ場(読み場、と言うべきか)はカニバリズムではなく、むしろその後で田村一等兵が戦争での一連の行為を再解釈する場面だ。この場面は正に小説というフォーマットでしか成しえないものであり、塚本晋也版が公開された際は、この場面をどのように扱うのかが自分の中で映画が成功するかどうかの重要なポイントだった。だが、そもそもそれ自体が間違いだったと、観直してみて気付いた。原作とほぼ同じような展開を映画もたどるが、あくまで原作は原作であり、映画は別の独立した作品として観るべきだったと今では思う。

塚本晋也版『野火』にて、主人公の田村一等兵は徹底的に観察者として描かれる。そして田村一等兵の目の前で繰り広げられるのは、戦争という名の、人間が行う考え得る限り最悪で残酷な行為の集合であり、またそれと対をなすようなフィリピンの美しき緑の大地、海、そして青空なのである。「なぜ大地を地で汚すのか」という映画のコピーは、簡潔にこの映画の本質を捉えている。原作にある文学的な仕掛けは一旦忘れ、映像で一兵士が体験した戦場をどれだけ忠実に表現できるかという点を重視したのが、塚本晋也版『野火』の肝ではないだろうか。モノクロである市川崑版の『野火』にはない美しさと醜悪さが、この映画には溢れている。

惜しむらくは、インディペンデント映画である本作の予算の都合上、国内でロケが行われたという場面が、観ている側からも何となく分かってしまうことだろう。観ている側でさえそうなのだから、製作側からすれば、これがどんなに悔しいことか。もし全編オールフィリピンロケができるほどの潤沢な予算で撮れていれば、どのような作品になったのだろうか。未だに太平洋戦争をまともに描くことを躊躇する日本の映画製作会社は、猛省すべきである。


2017年5月9日火曜日

呉美保『きみはいい子』

少し前の映画ですが。イジメ、学級崩壊、児童虐待といった社会的な問題を非常に丁寧に扱っていて、とても真摯なのだけど、リアリティにこだわりすぎて映像表現である映画としては如何なものかと思って観ていたら、高良健吾演じる岡野先生が生徒達に「宿題」を出した辺りから最後までは、本当に素晴らしかった。岡野の姉(ちなみにバツイチのシングルマザーという設定、この映画はこういう細かい設定が非常に凝っている)が「子供を可愛がれば、世界が平和になる」というようなことを言うシーンがあるが、本当にその通りだと頷く。こんな当たり前の真理が、これでもかというほど心に響く。社会的に弱い立場にある人達を、優しく包み込むようなこの映画のスタンスは、この社会のあるべき姿を提示しているのではないだろうか。逆に言えば、現実は厳しい。エンディングの岡野のように、より良い世界へ一歩を踏み出そう。


2017年5月3日水曜日

Netflix『13の理由』

最終話とその後に流れる製作陣や出演俳優へのインタビューを見るに、単純にドラマ作品としてのクオリティだけでなく、「ティーンエイジャーの自殺を防ぐ」という大きな目的があった上で作られていて、見終わって思わず関心してしまった。ハンナの自殺シーンは、これまで見た映画やドラマの自殺シーンの中でも最も痛々しく、尚且つ自殺を全く美化していない。インタビューでプロデューサーが語っていた通り自殺は答えではなく、その先には何も無いのだというメッセージがしっかりと伝わってくる。ゲイ、レズビアン、ナード(オタク)、ジョックス(体育会系)、白人、黒人、メキシカン、エイジアンという登場人物の多様な構成もとても模範的。日本でも、リベラルな高校なんかでは教材の一つとして使えるのではないだろうか。たびたびジョイ・ディヴィジョンの曲が流れるのは、少し狙い過ぎな気もしなくはないが。


2016年12月23日金曜日

Netflix『最後の追跡』、監督デヴィッド・マッケンジーの力量

ずっとNetflixのマイリストに入れたまま積んでた作品を、この休日を良い機会だと思って幾つか観てみたら、とんでもない傑作があって驚いた。主演がジェフ・ブリッジス、クリス・パインにベン・フォスター、スコアがニック・ケイヴ、監督がデヴィッド・マッケンジー。こんなに豪華なキャスト・製作陣の映画が、日本ではNetflix独占配信とは…。

本作は、基本的には犯罪者とそれを追う追跡者による現代版西部劇だが、それと同時に劇中で保安官のアルベルト(彼は先住民族であり、それこそがポイント)が言うように、この映画は「奪われた者がそれを奪い返す」物語でもある。まず先住民族から移民が奪い、更に移民の中でも貧しい者から富める者が奪い、今では1%がが99%から富を掠め取る、それが今のアメリカ。主人公達はその1%の象徴ともいえる「銀行」(いくら破綻しても政府から助けてもらえる言わば「聖域」)から金を盗み、その金で自分達の所有物だったものを奪い返す。このやり方はまるでビリー・ザ・キッドのような義賊のそれで、この映画の西部劇的な要素を否が応にも強調している。そして最後に、映画は西部劇らしく、当事者同士の一対一へと導かれていく。

それにしても監督のデヴィッド・マッケンジー、『名もなき塀の中の王』と本作しかまだ観ていないけれど、既に大物の趣がある。本作で映し出されるテキサスの荒野や銀行強盗、カーチェイスのシーンを観ていると、「男の映画を撮らせたら世界一」なマイケル・マンと同じような雰囲気を感じさせる。今、屈強な男の物語を撮らせてデヴィッド・マッケンジー以上か同等のクオリティの作品を作れる監督がどれだけいるだろうか。確かドゥニ・ヴィルニーヴが『ボーダーライン』公開時に同じくマイケル・マンと比較されていたが、この両者は同じくらい高いレベルに達しているように思う。




2016年12月13日火曜日

『ウォーキング・デッド』、様々なトピックの中にある普遍性

これまで避け続けてはいたものの、ついに『ウォーキング・デッド』に陥落してしまった。USのラップ情報目当てでフォローしているTwitterアカウントの中の方が余りにものめり込んでいるので、夜眠れない時に思わず見出したら案の定、こちらも泥沼に入り込んでしまった。キャスティングも、『デアデビル』のシーズン2でパニッシャー役を演じていたジョン・バーンサル、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のヨンドゥ役マイケル・ルーカー、『ジ・アメリカンズ』のノア・エメリッヒなど、色んなドラマや映画で見る面子が揃っていて、今から見るとなかなか面白い。ただキャスティングを調べるのにwikiを見ると、最新のシリーズでそのキャラクターが「生存」しているかどうか分かってしまうので、かなり注意が必要。いやー、しかしこれ、今もって現在進行中で、しかもシーズン7まであるのか…。

しかし、アメリカのドラマのトピックの多さには脱帽する。『ウォーキング・デッド』はゾンビ(公式にはゾンビではなく「ウォーカー」)、『ジ・アメリカンズ』は冷戦中のソ連のスパイ夫婦、『ブレイキング・バッド』『ナルコス』はドラッグ及び麻薬戦争、『ストレンジャー・シングス』はSF、『サン・オブ・アナーキー』はバイカー・ギャング、『ゴッサム』『デアデビル』に代表されるアメコミ原作モノ、等々。ただ多くのヒットするドラマに共通するのは、結局のところ突き詰めると「ホームドラマ」というか、家族のドラマに落ち着くというところ。『ゴッサム』のようなかなり変化球なドラマでも、飛び道具的な演出だけに留まらず、若き日のジェームズ・ゴードンとブルース・ウェインを中心とした人間ドラマをしっかり描いている。どれだけとんでもない設定でも、多くの視聴者に訴えかける普遍的なテーマが中心にないと成功しないのを、アメリカのドラマ製作者は分かっているということなのだろう。


2016年12月12日月曜日

90年代のヒップホップ黄金期を支えた伝説的なラジオ番組、『ストレッチ&ボビート 人生を変えるラジオ』

ATCQやナズのドキュメンタリー、『ゲット・ダウン』『フレッシュに着こなせ』など、なぜかヒップホップ関係の作品が充実しているNetflixに、また一つ重要作品が追加。今作は、90年代にNYを中心に爆発的な人気を誇ったラジオ番組のパーソナリティであるボビート・ガルシアとDJのストレッチ・アームストロングの二人が、当時のシーンの関係者へのインタビューを挟みつつ番組の歴史を振り返るドキュメンタリー。これ、とにかく出演者が豪華。インタビューに応じたアーティストだけでも、DJプレミア、ナズ、ジェイ・Z、バスタ・ライムス、コモン、エミネム、レイクウォン、レッドマン、ファロア・モンチ、ロード・フィネス、ファット・ジョー、etc。もう数え上げたらキリがない!他にも、当時のラジオ放送時のビデオ映像の出演者が多数(冒頭いきなりO.C.からDas EFX!)。個人的に一番アガったのは、ビッグ・Lとジェイ・Zが出演し、ラップを披露した回の音声が流されたシーン。プレミアやジェイ・Zといったビッグ・Lと関係のあったアーティスト(皆ヒップホップのキングと言っていい)がヘッドフォンに静かに耳を傾けていたのが、ビッグ・Lというラッパーの凄さを改めて感じさせる。ロード・フィネスなどD.I.T.C.のメンバーは、涙ぐんでいたようにも見える。このビッグ・Lのラップを聞くだけでも、今作を観る価値がある。

ただ、本当に本当にとてもとてもとても残念なのは、字幕を担当した人がおそらくヒップホップの知識が「全く」ないと思われるところ。固有名詞だけでも、ウータンを「ウータング」、フージーズを「フジーズ」、ビッグ・パンを「プン」、ファロア・モンチを「ファラオ・モンク」、ラージ・プロフェッサーを「教授」(いや、まあヘッズ的にはこれで十分意味は通るのだけどさ…)、「レペゼン」を「象徴する」など、凄まじい誤訳が多数。いや、こんなの序の口で、ヒップホップの知識があって英語の出来る人が真剣に観たら、ホントに数えきれない程あると思う。他にも単純に日本語になっていない訳がかなりあって、頭の中で英語音声を聞きながら足りない部分を付け足して観ていた。そんなでも十分楽しめた内容だっただけに、これはちゃんとヒップホップの知識がある方(できれば小林雅明さん、高橋芳朗さん、もしくはKダブか宇多丸あたり…)にしっかり監修してもらって、完璧なバージョンのものを観たいし、これはそうする価値のある映画だと思う。一つの時代の資料といってもいい。ちなみにオフィシャル・サイトでは、当時の番組を録音したテープを売ってたりする。めちゃくちゃ欲しい。もう売り切れてるけど!




2016年10月7日金曜日

Netflix『ルーク・ケイジ』なぜルークはなぜフードを被るのか?

休みを利用して、朝から『ルーク・ケイジ』を8話からラストの13話まで鑑賞。『デアデビル』ほど派手なアクションシーンはなく、『ジェシカ・ジョーンズ』のキルグレイヴほど圧倒的なヴィランがいるわけでもない本作。なので、序盤は「これ、ドラマとしてなかなかキツいな…」と思いながら見ていたけれど、終盤にダイアモンドバック(コットンマウスよりヴィランらしい!)が登場した辺りからはストーリーもアクションも格段にテンポよくなり、全エピソード通して見るとなかなかどうして楽しめた。

中でも一番ヤラれたのは、ウータン・クラン(ちなみにドラマ中でルークがウータンの1stを聞いているシーンがある)のメソッド・マンがゲスト出演した12話。このエピソードではメソッド・マンが強盗に遭遇するものの、たまたまその場に居合わせたルークに助けられる。そしてその後出演したラジオでルーク(とハーレムの住民)に向けてラップを披露するのだけど、そのリリックがこのドラマのテーマを分かりやすく表している。以下、その抜粋。

「秩序なき世界で誰を頼れるというんだ?」「みんなで立ち上がろう 警察は間違ってる」「彼は俺たちの最後のヒーローさ」「俺たち黒人のヒーロー」「トレイボンのためにも」

トレイボンとは、2012年に殺されたトレイボン・マーティンのこと。トレイボンは、黒人でフードを被っていたことが発端となって殺されたと言われている。ここでメソッド・マンがラップしているのは、このトレイボン・マーティン事件以後も不当に黒人を虐げる警察や司法への不信感と怒り、それに続く「ブラック・ライヴズ・マター」運動への連帯、そしてそんな世界(例えそれが現実でなくとも)に現れた、社会的不正義と戦うルーク・ケイジという「黒人」ヒーローへの称賛。そう、このドラマの主人公は黒人でなければならなかったし、何があろうともフードを被っている必要があった。警察から不当に疑われ、あろうことか銃を向けられるルークはトレイボンに代表される警察に不当に命を奪われた黒人達を、「防弾仕様」のルークを真似て穴の開いたフードを着て町を闊歩するハーレムの人々はフードを被ってデモ行進をする現実のアメリカの市民を、このエピソードではそれぞれトレースしている。怪力と鋼の体の持ち主という一見バカみたいな設定のヒーローは、アメリカの闇を告発する、黒人社会の代弁者だったのだ。


2015年10月31日土曜日

「虚構」と「現実」 - 『ハンニバル』と『ナルコス』

『ハンニバル』、マッツ・ミケルセンがレクター博士役と聞いて見てみたものの、シーズン1の途中で挫折。そこそこ評判は良かったように思うのだが、私にはマッツ・ミケルセンの華麗な演技以外に見所のないドラマに思えた。ドラマなのでしょうがないところもあるが、毎日のように異常な猟奇殺人が起きるのは、さすがに非現実的。主人公のウィル・グレアム捜査官が殺人現場で犯人の心理をプロファイルする演出(謎の振り子が回って、時間を遡る)も、イマイチというか、どうにも恰好がついていない。そして、このドラマでのウィル・グレアムは、あまりにも繊細な人物として描かれすぎだ。彼は最終的にはレクターを逮捕し、原作である『レッド・ドラゴン』の犯人も殺さなければならない人物であるはずなのだが。





















対して、Netflixオリジナル作品である『ナルコス』。こちらは非常に面白かった。コロンビアの伝説的麻薬王であるパブロ・エスコバル率いるメデジン・カルテルと、コロンビア政府+DEA(麻薬取締局)の戦いの記録。この戦いは、『仁義なき戦い』などの反社会的勢力(ヤクザ、ギャング、マフィア、etc)と政府・警察の潰し合いとはレベルが違う。ほとんど内戦といっていい。エスコバルがどういった人物で、メデジン・カルテルがどのようなことをしてきたか知っていたが、それでも十二分に楽しめた。全エピソードに見所があるといっても差し支えない充実ぶり。エスコバルやメデジン・カルテルのことを知らない人が『ナルコス』を見たら、きっと驚くことだろう。しかしよく言われるように、「事実は小説より奇なり」、だ。虚構の世界を描いた『ハンニバル』が陳腐な枠組みに収まっているのに対して、実話に基づいて作られた『ナルコス』が想像の遥か上を行く展開を見せるのは、道理にかなった話だとも言える。


2015年10月19日月曜日

スーパーヒーローの葛藤 - Netflix『デアデビル』シーズン1

警察(権力と言い換えても良いかもしれない)が犯罪者と対峙する物語。単純な勧善懲悪の物語。ここには、破綻がない。警察が行う行為には、「法律」という名の裏付けがあるからだ。警察が犯罪者に対して暴力を振るっても、発砲しても、法律の範囲内での行為ということで正当化される。稀にここからはみ出るものもあるが。

対して、バットマンや本エントリーにて扱うデアデビルに代表されるスーパーヒーローはどうか。彼らは、警察とは全く性質の異なる存在だ。悪を懲らしめるという行為自体は、警察とそれほど変わらないかもしれない。しかし、彼らとは拠って立つ場所が違う。スーパーヒーローは、法律では限界のある存在を相手にしているからだ。

法律は、単なる刑罰を規定している存在ではない。そこには、その国が持つ倫理観や道徳観が強く反映されている。前述の通り、スーパーヒーロー達は法律の外で暗躍する犯罪者を相手にして戦っている。警察では対応しきれない存在と格闘している。当然自らも、法律の外の存在にならざるを得ない。それはすなわち、その国の倫理や道徳観から離れた地点で戦わざるを得ないということを意味している。警察と犯罪者との対決とは、そこが決定的に違う。そしてそこにこそ、スーパーヒーロー達の葛藤がある。

デアデビルは、カトリックの信者だ。自分の行いを神父に告白し、懺悔し、心の中の悪魔と戦っている。我々がデアデビルに共感を抱くのは、彼のスーパーヒーローとしての能力の乏しさ(あくまでスーパーマンやアイアンマン等と比べてだが)ではなく、彼の葛藤にある。カトリックの教えと、自らの能力と、それに課せられた義務とのせめぎあいに、我々は心を打たれるのだ。デアデビルは、自らの存在意義を疑わない、完全無欠のヒーローとは違う。彼は善悪の境界線上でもがく、あくまで我々一般市民の延長線上の存在なのだ。