2017年6月22日木曜日

ポール・ニューマン×ジョージ・ロイ・ヒル『スラップ・ショット』

町山智浩さんがポール・ニューマン主演のおすすめ映画で『暴力脱獄』『評決』と共に挙げていたのが今作。今でいうとウィル・フェレルの『俺たち~』シリーズのようなハチャメチャなコメディの源流は、今作(77年)と『アニマル・ハウス』(78年)になるのだろうか。主人公達の所属チーム「チーフス」の本拠地は、初めはピッツバーグかと思っていたけどよく見て(聞いて)るとチャールズタウン(ボストン)で、チャールズタウンというと、ベン・アフレック監督・主演『ザ・タウン』のモチーフになった犯罪多発地域。『ザ・タウン』の主人公ダグは地元の「少年少女クラブ」でホッケーをやっていてプロにスカウトされたものの、暴力沙汰を起こしてクビになっているのだけど、幼きダグラス・マクレイが今作を観てホッケー=ケンカ!暴力!!と頭に刷り込まれた可能性を想像して一人で笑ってた。そういう裏設定ないかな、ないか。


2017年6月17日土曜日

S・スピルバーグ『激突!』

これまで何となくスルーしていたけれど、いざ観てみると、いやー面白かった。「2~3回追い越しただけで命を狙うなんて…」と主人公の心中がナレーションで流されるけれど、この映画が成り立っているのは、その「2~3回の追い越し」で命を狙われる可能性があるのではないかと、観てる側が普段から感じてるからではないだろうか。こういう日常の中に潜む恐怖を、本作では凶悪な見映えのトラックと、顔の見えないドライバーという形で暗示している。主人公の乗っているクライスラーとトラックのハードなカーチェイスは、自分の世代だとタランティーノの『デス・プルーフ』を思い出してしまうけれど、これは『激突!』からの影響も多分にあるのではないだろうか。というのも、日本語版のwikiを見ていたら、『激突!』に影響された映画の中に『ブレーキ・ダウン』という映画が入っていて、その映画の主演が『デス・プルーフ』で悪役を演じたカート・ラッセル。タランティーノならやりかねん。あとやっぱり、『マッドマックス』の約10年前にこのハードなカー・アクションを、しかもTV映画で撮っていたというのは、流石スピルバーグとしか言いようがない。


2017年5月31日水曜日

デヴィッド・ミショッド×ブラッド・ピット『ウォー・マシーン:戦争は話術だ!』

「PLAN B」というと、最近ではオスカーを獲得した『それでも夜は明ける』『ムーンライト』を作ったように、高クオリティ且つエッジの効いた映画を作る優秀な制作会社、というイメージが一般的にはあるように思う。一方、自分の中では、「ブラピが自分の意見をゴリ押したオレ映画を作る会社」というイメージの方が圧倒的に強く、それは信じられない程かったるく、まどろっこしい映画だった『ジャッキー・コーガン』を劇場で観てしまったダメージを未だに引きずってるのが大きい(観た当時は事故にでも遭ったかと思った)。ブラピは『それでも夜は明ける』『マネー・ショート 華麗なる大逆転』でしれっと美味しい役をかっさらってるけど、まだあの程度ならプロデューサー権限という名目で許せる範囲。

『ウォー・マシーン:戦争は話術だ!』に関していえば、これは正に『ジャッキー・コーガン』直系というか、ブラピの思想が映画が始まってから終わるまでずっと画面に滲み出ている、久々のオレ映画。アフガンに赴任した米軍指揮官を通してアメリカという国の傲慢さを批判しまくるものの、この映画を観る人の多くはおそらくアメリカのそうした姿勢をもう既に嫌と言うほど知っているし、しかもそれを2時間ひたすら主張され続けると、さすがに辛い。ブラピが指揮官であるマクマホーン将軍を、アメリカの傲慢さの象徴としてピエロのように演じ続ける意図もよく分かる。それでも、キツいものはキツい。

じゃあ見どころが全くないかと言われれば、そうでもない。邦題に「戦争は話術だ!」とある通り、アフガンという戦場を巡っての政治的な駆け引きを含めた「会話劇」としてこの映画を観てみるとなかなか面白いと思うし、マクマホーンのチームのメンバーは、皆キャラクターがよく立っていて、観ている方を退屈させない。そして軍の高官や政治家が交わす机上の空論だけで映画を終わらせるのかと思いきや、最後には対テロ戦争の現場を見せることで、戦争映画としての筋も通している。この辺りは、『アニマル・キングダム』でも同じく監督・脚本を務めたデヴィッド・ミショッドの手腕だろうか。正直、観ていてかなり上手い監督だと思った。もし、ブラピのオレ主張がなければ…。




2017年5月21日日曜日

塚本晋也『野火』

今では『シン・ゴジラ』の間教授、そして『沈黙』のモキチ役を演じた役者としての方が知名度があるのだろうか。Netflixにて、塚本晋也監督の諸作品が配信されている。しかも、去年Blu-rayにて発売されたニューHDマスター版である。『鉄男』も『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』も『東京フィスト』も『バレット・バレエ』も、最高の画質と音声で堪能できる。塚本晋也作品に興味のある方は、この機会に是非鑑賞してもらいたい。

Netflixではこうした過去作品と同時に、監督の最新作である『野火』も配信されている。昼間のマンションにあまり人の居ない時間帯を狙って、自宅にてセルフ爆音上映。鑑賞自体が劇場公開時に渋谷のユーロスペース以来(過去作品との併映+監督によるティーチイン付き、なんと豪華な興行!)になるが、今回改めて観てみて、ようやくこの映画を理解できた気がする。

大岡昇平による原作『野火』を読んだ方は分かるだろうが、この作品の元々の見せ場(読み場、と言うべきか)はカニバリズムではなく、むしろその後で田村一等兵が戦争での一連の行為を再解釈する場面だ。この場面は正に小説というフォーマットでしか成しえないものであり、塚本晋也版が公開された際は、この場面をどのように扱うのかが自分の中で映画が成功するかどうかの重要なポイントだった。だが、そもそもそれ自体が間違いだったと、観直してみて気付いた。原作とほぼ同じような展開を映画もたどるが、あくまで原作は原作であり、映画は別の独立した作品として観るべきだったと今では思う。

塚本晋也版『野火』にて、主人公の田村一等兵は徹底的に観察者として描かれる。そして田村一等兵の目の前で繰り広げられるのは、戦争という名の、人間が行う考え得る限り最悪で残酷な行為の集合であり、またそれと対をなすようなフィリピンの美しき緑の大地、海、そして青空なのである。「なぜ大地を地で汚すのか」という映画のコピーは、簡潔にこの映画の本質を捉えている。原作にある文学的な仕掛けは一旦忘れ、映像で一兵士が体験した戦場をどれだけ忠実に表現できるかという点を重視したのが、塚本晋也版『野火』の肝ではないだろうか。モノクロである市川崑版の『野火』にはない美しさと醜悪さが、この映画には溢れている。

惜しむらくは、インディペンデント映画である本作の予算の都合上、国内でロケが行われたという場面が、観ている側からも何となく分かってしまうことだろう。観ている側でさえそうなのだから、製作側からすれば、これがどんなに悔しいことか。もし全編オールフィリピンロケができるほどの潤沢な予算で撮れていれば、どのような作品になったのだろうか。未だに太平洋戦争をまともに描くことを躊躇する日本の映画製作会社は、猛省すべきである。


2017年5月14日日曜日

映画『ファイト・クラブ』と「alt-right」、そしてラストシーンに関する考察


少し前に『ファイト・クラブ』について話題になっていた記事。以下、引用。

" 最近また観返してみたのは、ここ1年ほどでメディアの俎上に上がっている「alt-right」などを含む「新反動主義者」たちの一群に、『ファイト・クラブ』の影が見えるという記事を読んだのがきっかけだった "

映画をおそらく30回以上観ていて、原作の小説も持っており、台詞も引用できるほどには熱烈なファンである私の政治信条は、「alt-right」とはかなり異なった立ち位置にいる。だが、この手の連中が『ファイト・クラブ』に共感するのは、実はとても分かる。あの映画は、生きる意味を見失い、自らを「去勢された」と感じているような「男」たちの断末魔の叫び声であるが、また同時に世の中に対して変化を求める人々の物語でもある。変化には当然良い・悪いがあるが、とにかく変化を求める人々にとっては、おそらく変化の中身は重要ではない。変化が起こることこそが重要なのだ。ele-kingで野田努さんかブレイディみかこさんが言っていたが、イギリスでは、パンクの登場がサッチャーの台頭を招いたのではないかという説があるらしい。これと正しく同じような構図で、『ファイト・クラブ』にシンパシーを抱く層が「新反動主義者」となり、トランプのような人物を支持するようになったのだろう。

こうした本筋の部分よりも気になったのは、映画のラストについての文章。以下引用。

" それにしても散々マッチョを煽っていたなか、Where Is My Mind? という自意識満載の問いに回帰してしまうのはなぜなのか "

原作と映画両方の熱烈なファン(しつこい)である私にとって、あのラストシーンが発しているメッセージは、もっと無責任でいい加減なものに見える。記事中では触れられていないが、映画ではこの「Where Is My Mind?」が流れる前に、サブリミナル的にチ〇コの画像が挿入される(レーティングされているレンタルのDVDなんかだと、ひょっとするとこの部分はカットされているかもしれない)。この動画でも映ってないけれど、コメント欄が「チ〇コが映ってねえじゃねえか!」で溢れている笑。



これは、ブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンが仕事の一つである映画館の映写技師をしている間に、上映されている映画にポルノ映画のフィルムの一コマを差し込むイタズラを本編で再現しているものだ。このシーンの有無で、映画の発するメッセージは大きく変わる。

この一見くだらないシーンが何を意味しているか。韓国の名匠キム・ギドクの言葉を借りれば、「映画は映画だ」ということだ。反物質主義を掲げ、資本主義社会の崩壊を目指し、クレジットカード会社のビルを根こそぎ爆破する過激なシーンの後で、「これはあくまで映画ですよ~」とゲラゲラ笑いながらそれまで散々煽ってきた思想をぶん投げるのが、このシーンなのだ。行き過ぎた悪ふざけに対し自ら冷や水を浴びせるのが、画面いっぱいに映し出される特大のチ〇コなのだ。そしてこの後で、「Where Is My Mind? (意訳:オレは一体何考えてるんだろう)」が流れる。これは、もはや内省的でも何でもなく、チ〇コに続いて畳みかけるように映画を締めくくるギャグでしかない。私はこの痛快な終わり方に何回も笑い、ある種の感銘も受けた。

別人格を作り、男共が殴り合う(より正確には「殴る」よりも、「殴られる」ことの方が重要なのだが)クラブを創設し、次にテロ集団を組織し、既存の社会を木っ端みじんに吹き飛ばすという大風呂敷を広げておきながら、最後はそれをあざ笑うように観客を置き去りにして立ち去る。この悪趣味な演出を見る限り、今作を撮っていた頃のデヴィッド・フィンチャーは全くもって食えない男であり、また同時に、そうした表現が許された時代でもあったということだ。今後これほど無邪気で、且つ無責任な映画が作られることは、おそらくない。


2017年5月13日土曜日

M・ナイト・シャマラン『スプリット』

みんな大好き、シャマランの新作。早速観に行ってきました。シャマランの映画だけはネタバレがない方が絶対に楽しめるので、これから観るという方はそっとタブを閉じて下さい…。


ジェームズ・マカヴォイ演じるケヴィンが23の人格を持っているという設定は、それだけでかなり面白い。『X-MEN』シリーズでのプロフェッサーばりの坊主姿で、会話中に瞬時に人格を切り替えるマカヴォイの演技は、正に圧巻。ただ、この映画の根底にあるのは、そうした複数の人格を持つに至った原因である子供時代の虐待の経験(この部分においてケヴィンは、もう一人の主人公・ケイシーと共鳴する)であり、今作を振り返った時、まず最初に痛みや悲しみを感じる理由はこれだろう。そう、これはシャマランの他の作品と同じく、本質的にはホラーやスリラーといったジャンル映画とは、少し趣の異なる作品である。原題の通り「split」(分裂する、割れるの意)してしまったのは日本版のポスターにある「恐怖」などではなくケヴィンの人格であり、また同時に虐待を受けた時に粉々に砕け散ってしまったケヴィンやケイシーの心なのだ。 

しかし、逆にそうした出自から"ザ・ビースト"のような特殊な能力を持った人間(を超えた存在)が生まれるのではないかという、シャマラン的には通常運転だが、他の映画監督からすればあまりにも大胆な仮説・発想は流石である。この仮説・発想の有無が、「他の監督でもあり得る」ような映画の枠組みから逸脱し、作品にシャマランという特異な映画作家の存在を刻印する。こうした「普通ならあり得ない」と却下されるようなものを映像にしてみせる気概こそが、彼の映画最大の魅力だとまたしても思い知らされる。

映画ファンの方ならご存じかと思うが、シャマラン自身がツイートした通り、彼の次作は2000年に公開されたMCU以前のヒーロー映画の傑作である『アンブレイカブル』と今作の続編となるようだ。この報を受けて、「シャマラン・ユニヴァース」なる用語も既にちらほらと目にする。今作からは、ケヴィン(=彼の23の人格+"ザ・ビースト")とケイシーが出演するそうだ。現在発表されているタイトルは、『GLASS』。『アンブレイカブル』を観た方なら、誰が出てくるのかもうお分かりだろう。公開予定の2019年まで、死ねない日々が続く。


2017年5月9日火曜日

呉美保『きみはいい子』

少し前の映画ですが。イジメ、学級崩壊、児童虐待といった社会的な問題を非常に丁寧に扱っていて、とても真摯なのだけど、リアリティにこだわりすぎて映像表現である映画としては如何なものかと思って観ていたら、高良健吾演じる岡野先生が生徒達に「宿題」を出した辺りから最後までは、本当に素晴らしかった。岡野の姉(ちなみにバツイチのシングルマザーという設定、この映画はこういう細かい設定が非常に凝っている)が「子供を可愛がれば、世界が平和になる」というようなことを言うシーンがあるが、本当にその通りだと頷く。こんな当たり前の真理が、これでもかというほど心に響く。社会的に弱い立場にある人達を、優しく包み込むようなこの映画のスタンスは、この社会のあるべき姿を提示しているのではないだろうか。逆に言えば、現実は厳しい。エンディングの岡野のように、より良い世界へ一歩を踏み出そう。