ラベル ドラマ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ドラマ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年5月3日水曜日

Netflix『13の理由』

最終話とその後に流れる製作陣や出演俳優へのインタビューを見るに、単純にドラマ作品としてのクオリティだけでなく、「ティーンエイジャーの自殺を防ぐ」という大きな目的があった上で作られていて、見終わって思わず関心してしまった。ハンナの自殺シーンは、これまで見た映画やドラマの自殺シーンの中でも最も痛々しく、尚且つ自殺を全く美化していない。インタビューでプロデューサーが語っていた通り自殺は答えではなく、その先には何も無いのだというメッセージがしっかりと伝わってくる。ゲイ、レズビアン、ナード(オタク)、ジョックス(体育会系)、白人、黒人、メキシカン、エイジアンという登場人物の多様な構成もとても模範的。日本でも、リベラルな高校なんかでは教材の一つとして使えるのではないだろうか。たびたびジョイ・ディヴィジョンの曲が流れるのは、少し狙い過ぎな気もしなくはないが。


2016年12月13日火曜日

『ウォーキング・デッド』、様々なトピックの中にある普遍性

これまで避け続けてはいたものの、ついに『ウォーキング・デッド』に陥落してしまった。USのラップ情報目当てでフォローしているTwitterアカウントの中の方が余りにものめり込んでいるので、夜眠れない時に思わず見出したら案の定、こちらも泥沼に入り込んでしまった。キャスティングも、『デアデビル』のシーズン2でパニッシャー役を演じていたジョン・バーンサル、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のヨンドゥ役マイケル・ルーカー、『ジ・アメリカンズ』のノア・エメリッヒなど、色んなドラマや映画で見る面子が揃っていて、今から見るとなかなか面白い。ただキャスティングを調べるのにwikiを見ると、最新のシリーズでそのキャラクターが「生存」しているかどうか分かってしまうので、かなり注意が必要。いやー、しかしこれ、今もって現在進行中で、しかもシーズン7まであるのか…。

しかし、アメリカのドラマのトピックの多さには脱帽する。『ウォーキング・デッド』はゾンビ(公式にはゾンビではなく「ウォーカー」)、『ジ・アメリカンズ』は冷戦中のソ連のスパイ夫婦、『ブレイキング・バッド』『ナルコス』はドラッグ及び麻薬戦争、『ストレンジャー・シングス』はSF、『サン・オブ・アナーキー』はバイカー・ギャング、『ゴッサム』『デアデビル』に代表されるアメコミ原作モノ、等々。ただ多くのヒットするドラマに共通するのは、結局のところ突き詰めると「ホームドラマ」というか、家族のドラマに落ち着くというところ。『ゴッサム』のようなかなり変化球なドラマでも、飛び道具的な演出だけに留まらず、若き日のジェームズ・ゴードンとブルース・ウェインを中心とした人間ドラマをしっかり描いている。どれだけとんでもない設定でも、多くの視聴者に訴えかける普遍的なテーマが中心にないと成功しないのを、アメリカのドラマ製作者は分かっているということなのだろう。


2016年10月10日月曜日

『乱暴者』、バイカー・ギャング、『サン・オブ・アナーキー』

昨日マーロン・ブランド主演の『乱暴者』を観ていてなんとなく考えていたのだけれど、バイカー・ギャングの起源はどのくらいまで遡るのだろう。さくっとwikiを見てみたら、『乱暴者』の原作は1947年にカリフォルニア州ホリスターで行われたバイカーの集会を元にしていて、その1年後に「オルタモントの悲劇」などで悪名高いバイカー・ギャング「ヘルズ・エンジェルズ」が結成されたらしい。ただこれをそのまま受け取ると、1947年以前にはもう既にバイカー自体はかなりの数存在していて、それがヘルズ・エンジェルズのような反社会的存在になった経緯はどういうものだったのだろう。英語版のwikiでバイカー・ギャング(向こうだとモーターサイクルギャングと言うらしい)のページを読んだもののそのオリジンに触れた記述は見当たらず、結局のところよく分からないままである。この辺りについて何かまとまった書籍などは出ていないのだろうか。

バイカー・ギャングの実態については、『サン・オブ・アナーキー』というドラマがなかなかに面白い。『パシフィック・リム』で主人公のローリーを演じたチャーリー・ハナムが主演していて、7シーズン続いた人気シリーズだ。銃や麻薬の密売、警察やIRAとの繋がり、敵対するバイカー・ギャングやギャングとの抗争、組織の(意外と民主的な)運営や内部の厳しい掟など見所が多く、また単純に犯罪ドラマとしても面白い。日本だとNetflixで全シーズン配信されていて、確かTSUTAYAなんかでもDVDのレンタルがされているはずなので、興味のある方はぜひ見てほしい。


2016年10月7日金曜日

Netflix『ルーク・ケイジ』なぜルークはなぜフードを被るのか?

休みを利用して、朝から『ルーク・ケイジ』を8話からラストの13話まで鑑賞。『デアデビル』ほど派手なアクションシーンはなく、『ジェシカ・ジョーンズ』のキルグレイヴほど圧倒的なヴィランがいるわけでもない本作。なので、序盤は「これ、ドラマとしてなかなかキツいな…」と思いながら見ていたけれど、終盤にダイアモンドバック(コットンマウスよりヴィランらしい!)が登場した辺りからはストーリーもアクションも格段にテンポよくなり、全エピソード通して見るとなかなかどうして楽しめた。

中でも一番ヤラれたのは、ウータン・クラン(ちなみにドラマ中でルークがウータンの1stを聞いているシーンがある)のメソッド・マンがゲスト出演した12話。このエピソードではメソッド・マンが強盗に遭遇するものの、たまたまその場に居合わせたルークに助けられる。そしてその後出演したラジオでルーク(とハーレムの住民)に向けてラップを披露するのだけど、そのリリックがこのドラマのテーマを分かりやすく表している。以下、その抜粋。

「秩序なき世界で誰を頼れるというんだ?」「みんなで立ち上がろう 警察は間違ってる」「彼は俺たちの最後のヒーローさ」「俺たち黒人のヒーロー」「トレイボンのためにも」

トレイボンとは、2012年に殺されたトレイボン・マーティンのこと。トレイボンは、黒人でフードを被っていたことが発端となって殺されたと言われている。ここでメソッド・マンがラップしているのは、このトレイボン・マーティン事件以後も不当に黒人を虐げる警察や司法への不信感と怒り、それに続く「ブラック・ライヴズ・マター」運動への連帯、そしてそんな世界(例えそれが現実でなくとも)に現れた、社会的不正義と戦うルーク・ケイジという「黒人」ヒーローへの称賛。そう、このドラマの主人公は黒人でなければならなかったし、何があろうともフードを被っている必要があった。警察から不当に疑われ、あろうことか銃を向けられるルークはトレイボンに代表される警察に不当に命を奪われた黒人達を、「防弾仕様」のルークを真似て穴の開いたフードを着て町を闊歩するハーレムの人々はフードを被ってデモ行進をする現実のアメリカの市民を、このエピソードではそれぞれトレースしている。怪力と鋼の体の持ち主という一見バカみたいな設定のヒーローは、アメリカの闇を告発する、黒人社会の代弁者だったのだ。


2015年10月31日土曜日

「虚構」と「現実」 - 『ハンニバル』と『ナルコス』

『ハンニバル』、マッツ・ミケルセンがレクター博士役と聞いて見てみたものの、シーズン1の途中で挫折。そこそこ評判は良かったように思うのだが、私にはマッツ・ミケルセンの華麗な演技以外に見所のないドラマに思えた。ドラマなのでしょうがないところもあるが、毎日のように異常な猟奇殺人が起きるのは、さすがに非現実的。主人公のウィル・グレアム捜査官が殺人現場で犯人の心理をプロファイルする演出(謎の振り子が回って、時間を遡る)も、イマイチというか、どうにも恰好がついていない。そして、このドラマでのウィル・グレアムは、あまりにも繊細な人物として描かれすぎだ。彼は最終的にはレクターを逮捕し、原作である『レッド・ドラゴン』の犯人も殺さなければならない人物であるはずなのだが。





















対して、Netflixオリジナル作品である『ナルコス』。こちらは非常に面白かった。コロンビアの伝説的麻薬王であるパブロ・エスコバル率いるメデジン・カルテルと、コロンビア政府+DEA(麻薬取締局)の戦いの記録。この戦いは、『仁義なき戦い』などの反社会的勢力(ヤクザ、ギャング、マフィア、etc)と政府・警察の潰し合いとはレベルが違う。ほとんど内戦といっていい。エスコバルがどういった人物で、メデジン・カルテルがどのようなことをしてきたか知っていたが、それでも十二分に楽しめた。全エピソードに見所があるといっても差し支えない充実ぶり。エスコバルやメデジン・カルテルのことを知らない人が『ナルコス』を見たら、きっと驚くことだろう。しかしよく言われるように、「事実は小説より奇なり」、だ。虚構の世界を描いた『ハンニバル』が陳腐な枠組みに収まっているのに対して、実話に基づいて作られた『ナルコス』が想像の遥か上を行く展開を見せるのは、道理にかなった話だとも言える。


2015年10月19日月曜日

スーパーヒーローの葛藤 - Netflix『デアデビル』シーズン1

警察(権力と言い換えても良いかもしれない)が犯罪者と対峙する物語。単純な勧善懲悪の物語。ここには、破綻がない。警察が行う行為には、「法律」という名の裏付けがあるからだ。警察が犯罪者に対して暴力を振るっても、発砲しても、法律の範囲内での行為ということで正当化される。稀にここからはみ出るものもあるが。

対して、バットマンや本エントリーにて扱うデアデビルに代表されるスーパーヒーローはどうか。彼らは、警察とは全く性質の異なる存在だ。悪を懲らしめるという行為自体は、警察とそれほど変わらないかもしれない。しかし、彼らとは拠って立つ場所が違う。スーパーヒーローは、法律では限界のある存在を相手にしているからだ。

法律は、単なる刑罰を規定している存在ではない。そこには、その国が持つ倫理観や道徳観が強く反映されている。前述の通り、スーパーヒーロー達は法律の外で暗躍する犯罪者を相手にして戦っている。警察では対応しきれない存在と格闘している。当然自らも、法律の外の存在にならざるを得ない。それはすなわち、その国の倫理や道徳観から離れた地点で戦わざるを得ないということを意味している。警察と犯罪者との対決とは、そこが決定的に違う。そしてそこにこそ、スーパーヒーロー達の葛藤がある。

デアデビルは、カトリックの信者だ。自分の行いを神父に告白し、懺悔し、心の中の悪魔と戦っている。我々がデアデビルに共感を抱くのは、彼のスーパーヒーローとしての能力の乏しさ(あくまでスーパーマンやアイアンマン等と比べてだが)ではなく、彼の葛藤にある。カトリックの教えと、自らの能力と、それに課せられた義務とのせめぎあいに、我々は心を打たれるのだ。デアデビルは、自らの存在意義を疑わない、完全無欠のヒーローとは違う。彼は善悪の境界線上でもがく、あくまで我々一般市民の延長線上の存在なのだ。