2015年10月19日月曜日

スーパーヒーローの葛藤 - Netflix『デアデビル』シーズン1

警察(権力と言い換えても良いかもしれない)が犯罪者と対峙する物語。単純な勧善懲悪の物語。ここには、破綻がない。警察が行う行為には、「法律」という名の裏付けがあるからだ。警察が犯罪者に対して暴力を振るっても、発砲しても、法律の範囲内での行為ということで正当化される。稀にここからはみ出るものもあるが。

対して、バットマンや本エントリーにて扱うデアデビルに代表されるスーパーヒーローはどうか。彼らは、警察とは全く性質の異なる存在だ。悪を懲らしめるという行為自体は、警察とそれほど変わらないかもしれない。しかし、彼らとは拠って立つ場所が違う。スーパーヒーローは、法律では限界のある存在を相手にしているからだ。

法律は、単なる刑罰を規定している存在ではない。そこには、その国が持つ倫理観や道徳観が強く反映されている。前述の通り、スーパーヒーロー達は法律の外で暗躍する犯罪者を相手にして戦っている。警察では対応しきれない存在と格闘している。当然自らも、法律の外の存在にならざるを得ない。それはすなわち、その国の倫理や道徳観から離れた地点で戦わざるを得ないということを意味している。警察と犯罪者との対決とは、そこが決定的に違う。そしてそこにこそ、スーパーヒーロー達の葛藤がある。

デアデビルは、カトリックの信者だ。自分の行いを神父に告白し、懺悔し、心の中の悪魔と戦っている。我々がデアデビルに共感を抱くのは、彼のスーパーヒーローとしての能力の乏しさ(あくまでスーパーマンやアイアンマン等と比べてだが)ではなく、彼の葛藤にある。カトリックの教えと、自らの能力と、それに課せられた義務とのせめぎあいに、我々は心を打たれるのだ。デアデビルは、自らの存在意義を疑わない、完全無欠のヒーローとは違う。彼は善悪の境界線上でもがく、あくまで我々一般市民の延長線上の存在なのだ。




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