2015年10月11日日曜日

責任放棄の成れの果て- 『バトル・ロワイアル』

正直に白状するが、『バトル・ロワイアル』を観たのはこの年になって初めてである。DVDを借りたのでも名画座などで観たのでもなく、『デアデビル』や『NARCOS』のついでにNetflixで「確認」した、というのが私としては正確な表現だろう(ちなみに両作品は共にNetflixオリジナルの作品で、Netflixでしか視聴できない)。

いやはや、これは青少年に見せてはいけない。大人から子供に勧めるなどもってのほかだ。公開当時に話題になった残虐性など問題ではない。幾つかの韓国映画やタランティーノ辺りの作品に比べれば、暴力描写はどうということはない。そんなことはどうでもいい。私が問題だと思うのは、この作品が持つ「無責任」さである。

この映画の有名なセリフに、北野武が言う「今日はみんなに、ちょっと殺し合いをしてもらいます」というものがある。このセリフ通り、中学3年の子供達は生き残りをかけて、それまで友達だった相手に対して疑心暗鬼に陥りながら、殺しあう。このサバイバルは、「無慈悲な大人の世界」のアナロジーなのだろうか?だとすれば、映画のラストでは子供達は大人達を殺さなくてはならない。より真っ当な世界を目指すのなら当然だ。

だが、映画ではそうならない。確かに、北野武演じる「キタノ先生」は死ぬ。だが、その他の大人はそのままだ。もっと悪いことに、柴咲コウの役などが典型だが、子供を悪魔化しているようなフシさえ見える。大人が子供を理解できないのは、いつの時代もだってそうだ(『イージー・ライダー』を見よ!)。理解できないからといって、映画の中で「殺し合い」などという残酷極まる試練を課すことに何の意味があるのか?その中で見える「狂気」など、何の意味がある?私には、勝手な都合で子供を残忍な世界に放つ大人の「無責任さ」が全編に渡って垣間見える、不快な2時間でしかなかった。子供に罪はない。あるとすれば、そうした世界を作った大人の方である。それは現実社会でも、映画でも同じだ。


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