2015年10月27日火曜日

『ジョン・ウィック』『キングスマン』に見る、映画で「人を殺す」ことの必然性

これで「キアヌ・リーヴス復活」といっていいのだろうか…。アクション映画の「ネクスト・レベル」を提示したマシュー・ヴォーン『キングスマン』を観てしまった後では霞んで見える、この映画の売りであるはずのアクション。深掘りする、裏を読む、映画の提示するテーマを読み取るといった必要性を全く感じさせない、単純で奥行のないストーリー。ウィレム・デフォー、ジョン・レグイザモ、イアン・マクシェーンという錚々たる名優達の存在感をほとんど無にしてしまうキャスティングと演出。「大金をかけたB級映画」、という印象しか残らなかった。しかし、これが北米だけで400億ドルを超える興行収入を稼ぎ出したというのだから、もはや私には今の映画界のトレンドは分からないのかもしれない。

それ以上に気になるのは、『ジョン・ウィック』も『キングスマン』もそうだが、映画の中とはいえ、こんなに簡単に人を殺してしまってよいものだろうか。確かに映画の歴史全体で見ると、『ダイハード』シリーズやスタローン、シュワルツェネッガー、セガール等が主演を務めていた90年代の映画の方が殺した人間の数は多いかもしれない。ただ、前述した2作(なんなら『キック・アス』を加えてもいい)では、90年代の作品でのとにかく数を殺すだけのものとは違って、殺人が芸術的なもの・美しいもの・面白いものとして描かれているように思える。これは私自身が歳を取ったとか、日和ったとか、そういう話ではない。本来ならば、こうした描写は倫理的に許されるものではないと思う。

次回作が遠藤周作の『沈黙』の実写化で、子供の頃は聖職者を目指していたというマーティン・スコセッシ。彼の映画の多くは暴力に溢れているが、そこには同時に残酷さや悲惨さがある。そこには、彼なりの倫理観が反映されているのだろう。芸術的な死、美しすぎる死。華麗で鮮やかな殺人の手口。鑑賞後のおしゃべりのネタとしてスクリーン上で飛び散る人体。『ジョン・ウィック』や『キングスマン』の成功で、似たような感触の映画は増えるに違いない。これは、我々が望み選び取った映画の未来なのか。

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