2015年10月14日水曜日

フィンチャーが提示する、残酷な世界観 - 『セブン』

『セブン』は中学生の時、TVで放送されていたものを鑑賞したのが最初だ。Wikipediaによると、1998年にフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」で放送されたとある。これは私の記憶と一致する。幸運にもその回をVHS(なんともノスタルジーを誘う響き…)に録画していた私は、その後繰り返しそのテープを再生することになる。当時はインターネットが今のように完全に普及しておらず、作品の解釈をwebで検索することもしなかった。今「映画 セブン」で検索すると、“映画「セブン」の真犯人は、サマセット”という記事が3番目に表示される。やれやれ。

その後17年経ち、Netflixにて『セブン』に再会した訳だが、映画の「後味」は中学生の時とさほど変わらない。当時の衝撃が心に強く残っているというのもあるだろうが、やはり映画自体の完成度が高いというのが大きな理由だろう。自分で言うのもなんだが、これまでそれなりの数の映画を観てきた。穴だらけのものから、ほとんど完璧といってよいようなものまで。本作にこれといった穴は見当たらないように思う。ケヴィン・スペイシー演じるジョン・ドゥの手際が良すぎる、モーガン・フリーマン演じるサマセット刑事の定年7日前に事件が起こる、などは人によっては映画の粗と見えるかもしれない。が、私はそうは思わない。そんなことを言い出したら、映画というもの自体が成り立たなくなる。完璧に現実のルールに則った映画が面白いとも限らない。

10数年ぶりに観て感じたのは、本作の世界観の、コーマック・マッカーシーのそれとの類似性だ。キリスト教における「七つの大罪」が殺人の動機として挙げられるが、これは映画を動かす単なるギミックでしかない。ジョン・ドゥがパトカーの中で説教を垂れるが、これも平凡な文句そのものだ。むしろ重要なのは、その悪魔的な犯行の手際だ。名前以外はほとんど不明(もしかしたら名前も偽名かもしれない)、にも関わらず殺人を実行するだけの資金と時間と能力はあり、警察の捜査を見事にかいくぐる知能も持ち合わせている。まるで『血と暴力の国』のアントン・シガーだ。シガーの存在を、マッカーシーは「絶対悪」と呼んでいる。サマセットやブラッド・ピット演じるミルズとその家族は、さして理由があったわけでもなく、不運にもその悪魔と運命が交差し、その犠牲となったにすぎない。デヴィッド・フィンチャーは単なる良く出来たサスペンス以上のものを、『セブン』において提示している。それは我々にとっては認めがたいが、しかし非常に現実的なものなのかもしれない。


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