タイトルの言葉は、新約聖書から取られたものだ。噛み砕いて言うと、「復讐とは人間がすることではない、神のすることだ」という意味になる。本作を観てから、タイトルに込められた意味を考える。原作者の佐木隆三は、なぜこの言葉をタイトルに選んだのか。
劇中で巌は幾つか詐欺事件起こし、計5人の人間を殺す。しかし、浜松の宿屋の女将・ハル(小川真由美)の母親・ひさ乃(清川虹子)にある日、こう言われる。「ほんとに殺したい奴、殺してねえんかね?」。巌は、「そうかもしれん」と答える。確かに、巌の浜松までの殺人遍歴を振り返ると、実に場当たり的に見える。借金に困っていたとか、殺したいほど憎い人間がいたとか、そうした描写は一切ない。ただ人を殺し、金を盗り、逃げる。快楽殺人犯というわけでもない。巌はなぜ、こんな残忍な男になったのか。巌をここまで追い込んだものは何か。
それは、映画のラストに明らかになる。巌の父親、鎭雄(三國連太郎)との面会シーンだ。ここで巌は、鎭雄に向かってこう吐き捨てる。「どうせ殺すなら、あんたを殺しゃあよかったと思うたよ」。『ファイト・クラブ』からの引用になるが、「子にとって親は神」のような存在だ。創造主ともいえる。付け加えるならば鎭雄は、敬虔なクリスチャンだ。巌の数々の犯罪や反道徳的な行為は、自らの「神」ともいえる鎭雄に対する反発の現れだったのではないか。巌自身も違和感をよく分からないと言っている浜松でのハル・ひさ乃の殺人は、自分自身が反発していた「神」になる=父親になることへの畏れが生んだのではないか。これは「父殺し」ならぬ、「父を殺せなかった」男の物語だ。
前述の面会シーンで、神父に頼み自分自身を破門にしてもらったことを告白し、しかしそれでも我々は神を畏れなければいけないと言う鎭雄。反対に、俺には神様は要らないという巌。結局2人の魂は、最後まで相容れなかった。死後、神は2人にどう裁きを下すのか。
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