2015年10月16日金曜日

薄っぺらい感傷にまみれた正真正銘の「駄作」 - 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

公開当時、左右両派から酷評をくらったらしい。確かに、それも頷ける内容だ。両陣営共に、良くも悪くももっと残酷なまでに強い姿を求めたはずだ。この映画に「鉄の女」と呼ばれた人間の面影はない。先立った夫の影を追い求め、深夜に家の中を徘徊する認知症を患った哀れな女性がいるだけだ。

前述の指摘通り、この映画の問題はこの「鉄の女」の実像(と製作者が考えた、あるいは映画的にそれが相応しいと決定された人物像)にある。人間の価値は、何を考えたかではなく、何をしたかが重要だ、というのはカート・ヴォネガットの言葉だ。サッチャーがしたことは何か。新自由主義の導入、社会保障の削減、フォークランド紛争、人頭税の導入(これは失敗したが)、等々。映画では、これら個々の政策は二の次になっている。家族との関係や、女性が政治の世界に踏み入ることの難しさがまず第一だ。これでは、「伝記映画」としては片手落ちではないだろうか。プライベートな事柄のみに絞れば、ヒトラーやブッシュや安倍晋三だって同情的に描ける。

また、この圧政者と対立する勢力の描写があまりにもひどい。確かに女性が政治の世界で活躍するにはそれなりに苦労があったことは想像できる。しかし、彼女に反対する全ての人物がまるで悪魔のように描かれるのはあまりにも事実を単純化しすぎだ。反対意見を述べる議員も、抗議をする人々も、全て男なのはなぜなのか。分かりやすい対立軸を提示するのも映画の手法的にはアリだが、これは現実に起こったことだ。「伝記映画」であるからには、事実を無視してはいけない。

私個人の映画観・政治観に照らせば、この映画は最悪の部類に入る。アダム・サンドラーの映画の方が100万倍ましだ。新自由主義的な思想がさも美徳であるかのように描かれる演出には寒気がする。フォークランドで無駄死にした兵士に出番は訪れない。コミュニティを破壊されたワーキングクラスの炭鉱労働者もだ。そして、チリの憎むべき「独裁者」ピノチェトとの関係には触れもしない。この映画を見て彼女に同情の念を抱いた人は、ケン・ローチの作品を見てみるといい。虚飾にまみれた世界の裏側を見ることができるはずだ。本作の評価は、その後でも遅くはない。


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