2015年10月31日土曜日

「虚構」と「現実」 - 『ハンニバル』と『ナルコス』

『ハンニバル』、マッツ・ミケルセンがレクター博士役と聞いて見てみたものの、シーズン1の途中で挫折。そこそこ評判は良かったように思うのだが、私にはマッツ・ミケルセンの華麗な演技以外に見所のないドラマに思えた。ドラマなのでしょうがないところもあるが、毎日のように異常な猟奇殺人が起きるのは、さすがに非現実的。主人公のウィル・グレアム捜査官が殺人現場で犯人の心理をプロファイルする演出(謎の振り子が回って、時間を遡る)も、イマイチというか、どうにも恰好がついていない。そして、このドラマでのウィル・グレアムは、あまりにも繊細な人物として描かれすぎだ。彼は最終的にはレクターを逮捕し、原作である『レッド・ドラゴン』の犯人も殺さなければならない人物であるはずなのだが。





















対して、Netflixオリジナル作品である『ナルコス』。こちらは非常に面白かった。コロンビアの伝説的麻薬王であるパブロ・エスコバル率いるメデジン・カルテルと、コロンビア政府+DEA(麻薬取締局)の戦いの記録。この戦いは、『仁義なき戦い』などの反社会的勢力(ヤクザ、ギャング、マフィア、etc)と政府・警察の潰し合いとはレベルが違う。ほとんど内戦といっていい。エスコバルがどういった人物で、メデジン・カルテルがどのようなことをしてきたか知っていたが、それでも十二分に楽しめた。全エピソードに見所があるといっても差し支えない充実ぶり。エスコバルやメデジン・カルテルのことを知らない人が『ナルコス』を見たら、きっと驚くことだろう。しかしよく言われるように、「事実は小説より奇なり」、だ。虚構の世界を描いた『ハンニバル』が陳腐な枠組みに収まっているのに対して、実話に基づいて作られた『ナルコス』が想像の遥か上を行く展開を見せるのは、道理にかなった話だとも言える。


2015年10月27日火曜日

『ジョン・ウィック』『キングスマン』に見る、映画で「人を殺す」ことの必然性

これで「キアヌ・リーヴス復活」といっていいのだろうか…。アクション映画の「ネクスト・レベル」を提示したマシュー・ヴォーン『キングスマン』を観てしまった後では霞んで見える、この映画の売りであるはずのアクション。深掘りする、裏を読む、映画の提示するテーマを読み取るといった必要性を全く感じさせない、単純で奥行のないストーリー。ウィレム・デフォー、ジョン・レグイザモ、イアン・マクシェーンという錚々たる名優達の存在感をほとんど無にしてしまうキャスティングと演出。「大金をかけたB級映画」、という印象しか残らなかった。しかし、これが北米だけで400億ドルを超える興行収入を稼ぎ出したというのだから、もはや私には今の映画界のトレンドは分からないのかもしれない。

それ以上に気になるのは、『ジョン・ウィック』も『キングスマン』もそうだが、映画の中とはいえ、こんなに簡単に人を殺してしまってよいものだろうか。確かに映画の歴史全体で見ると、『ダイハード』シリーズやスタローン、シュワルツェネッガー、セガール等が主演を務めていた90年代の映画の方が殺した人間の数は多いかもしれない。ただ、前述した2作(なんなら『キック・アス』を加えてもいい)では、90年代の作品でのとにかく数を殺すだけのものとは違って、殺人が芸術的なもの・美しいもの・面白いものとして描かれているように思える。これは私自身が歳を取ったとか、日和ったとか、そういう話ではない。本来ならば、こうした描写は倫理的に許されるものではないと思う。

次回作が遠藤周作の『沈黙』の実写化で、子供の頃は聖職者を目指していたというマーティン・スコセッシ。彼の映画の多くは暴力に溢れているが、そこには同時に残酷さや悲惨さがある。そこには、彼なりの倫理観が反映されているのだろう。芸術的な死、美しすぎる死。華麗で鮮やかな殺人の手口。鑑賞後のおしゃべりのネタとしてスクリーン上で飛び散る人体。『ジョン・ウィック』や『キングスマン』の成功で、似たような感触の映画は増えるに違いない。これは、我々が望み選び取った映画の未来なのか。

2015年10月25日日曜日

膨らみ上がる期待 - PUNPEEがソロ・アルバムを発表できる日は来るか

10/23、代官山UNITにて開催された「P-VINE 40TH ANNIVERSARY THE SEXORCIST x NEW DECADE x REFUGEE MARKET」。このイベントのメインステージの最後を飾ったのはBBHだが、実質的な大トリはPUNPEE。持ち時間は30分だったが、もはや貫禄さえ漂うパフォーマンスだった。本人のラップや曲間での観客の心を掴むのMCの上手さに加え、GAPPERとSEEDA(まさかの「不定職者」!)というゲスト陣、この日限定のお披露目となるであろうBUDDHA BRAND「DON'T TEST DA MASTER」REMIX、最後は最新のリリースである加山雄三「お嫁においで」REMIXで大団円。日本語ラップを「エンタメ」の領域にまで押し広げるステージングは、同日に出演したWCBや1982sといった同世代よりも、スチャダラ、ライムスター、KREVAといったマスにまで支持を集めている大御所と比較した方が正しいだろう。



しかしこのステージを見て気になったのは、未だにスケジュールすらはっきりとしないキャリア初の「ソロ・アルバム」だ。観客の反応を見ても、PUNPEEがもう既に日本語ラップ界のスターであることは間違いないし、オフィシャル・アンオフィシャル含め、数少ない本人名義の楽曲も名曲揃いだ。ただそれだけに、リリースに向けて作品に対するハードルがどんどん高くなっているのは事実だろう。その点を考えると、あっさり1stと2ndを発表した5lackの戦略(あったかどうかは不明だが)は、賢いやり方だったと言わざるを得ない。

前述した現在発表されている楽曲も、実は不安要素の一つだ。どの楽曲も高いクオリティを保持しているが、私には全て「シングル」向けの楽曲のように聞こえる。「アルバム」は当然それ自体が一つの作品やストーリーとして提示されるべきで、全ての曲が強い個性を主張しているようではアルバムとして成立し得ない。それは、もはや「ベスト・アルバム」とでも言うべきものだ。

もしかしたら、PUNPEEはそうした「ベスト・アルバム」や作品集といった形でのリリースを考えているのかもしれない。というか私には、この時点でそれ以外のアイデアが思いつかない。PUNPEEのことだから、ファンの期待を吹き飛ばすような「作品としてのアルバム」を発表することもあり得る。ただ、ファンからのあれだけの期待を上回るだけのクオリティを持つ作品を作り出すことは果たして可能だろうか。PUNPEEの正に「待望」の「ソロ・アルバム」は、まだまだ随分先のことになるような気がしてならない。

2015年10月21日水曜日

ラッパーの「言葉」、その重みを噛み締める - tha BOSS『IN THE NAME OF HIPHOP』

たったワンラインで、リスペクトを失う。これがヒップホップ。NORIKIYOは、私にとって日本でベストなラッパーの一人だった。スキルフルで、音楽的にも進化を続け、それでも客演でかます時はかます。そんな信頼も、「仕事しよう」を聞いた瞬間に崩れ落ちた。「昔のツレは生活保護 昼間から飲んでるもろ」から始まる、正確な現実認識を欠いた生活保護受給者への非難。これ以来NORIKIYOのCDは買ってないし、そもそも音源すら聞いてない。ラッパーは言葉が武器。だからこそ、慎重に言葉を選ばなければならない。

BOSSは、良くも悪くも天然なアーティストだと思う。前回の参院選にて、悪質な陰謀論者をフォローしている三宅洋平を応援したのは記憶に新しい。インタビューでいわゆる「どっちもどっち論」をぶち上げて批判されたこともある。2012年にリリースされたTBHの4thアルバム「TOTAL」は、それでも何とかこれまで勝ち得た信頼を失わないだけの充実した内容だった。インディーズ・イシューのインタビューで語っていたように、言葉の限界を知った上で紡がれた言葉の数々。まだまだBOSSは健在だ、と思ったものだ。

『IN THE NAME OF HIPHOP』、BOSSの長いキャリアでも初のソロアルバム。ポエトリー・リーディングのようで実は絶妙なリズム感でビートに乗っていくラップ、巧妙に仕組まれた複雑なライム。BOSSのラッパーとしての一つの到達点といっても良いだろう。トラックのチョイスも申し分ない。「Candle Chant」以来のDJ KRUSHとの邂逅「LIVING IN THE FUTURE」~KAZZ-Kのタイトなトラックが光る「ABOVE THE WALL」に至る流れは、本作のハイライトだ。

しかし震災以降、少なからず社会運動に携わってきた人間としては、どうにも合点のいかないポイントがある。「MATCHSTICK SPIT」の「国の愛し方すら解り合えない」、冒頭のサンプリング、「SEE EVIL, HEAR EVIL, SPEAK NO EVIL」の「ただ右や左じゃねえ どっちにも属さねえ カッカするなよ 見てられねえ」。ネット上にはヘイトスピーチが溢れ、現実社会を侵食する時代。明らかに資格を欠く人間が国のトップに立ち、庶民に重税が課せられ、解釈改憲によって自衛隊が海外に派兵されようというこの時代。BOSSのような社会的意識の高いラッパーの立ち位置が、このような曖昧なもので良いのか。中立を装うことが、何に加担するのか理解しているのか。

ワンラインで評価を上げも下げもするのがラッパーの宿命。セルフポーストに独自のヒップホップ・フィロソフィー、B.I.G. JOEやYOU THE ROCK★(「A SWEET LITTLE DIS」!)を招いて披露した自身のラッパーとしての歴史、正に「BOSSIZM」満載の名盤が、たった数行のリリックで全体の評価を下げてしまうのは、一ファンとして残念で仕方ない。しかし何度も言うように、それがラッパーであり、BOSSが望む評価のされ方だとも思うのだ。


2015年10月19日月曜日

スーパーヒーローの葛藤 - Netflix『デアデビル』シーズン1

警察(権力と言い換えても良いかもしれない)が犯罪者と対峙する物語。単純な勧善懲悪の物語。ここには、破綻がない。警察が行う行為には、「法律」という名の裏付けがあるからだ。警察が犯罪者に対して暴力を振るっても、発砲しても、法律の範囲内での行為ということで正当化される。稀にここからはみ出るものもあるが。

対して、バットマンや本エントリーにて扱うデアデビルに代表されるスーパーヒーローはどうか。彼らは、警察とは全く性質の異なる存在だ。悪を懲らしめるという行為自体は、警察とそれほど変わらないかもしれない。しかし、彼らとは拠って立つ場所が違う。スーパーヒーローは、法律では限界のある存在を相手にしているからだ。

法律は、単なる刑罰を規定している存在ではない。そこには、その国が持つ倫理観や道徳観が強く反映されている。前述の通り、スーパーヒーロー達は法律の外で暗躍する犯罪者を相手にして戦っている。警察では対応しきれない存在と格闘している。当然自らも、法律の外の存在にならざるを得ない。それはすなわち、その国の倫理や道徳観から離れた地点で戦わざるを得ないということを意味している。警察と犯罪者との対決とは、そこが決定的に違う。そしてそこにこそ、スーパーヒーロー達の葛藤がある。

デアデビルは、カトリックの信者だ。自分の行いを神父に告白し、懺悔し、心の中の悪魔と戦っている。我々がデアデビルに共感を抱くのは、彼のスーパーヒーローとしての能力の乏しさ(あくまでスーパーマンやアイアンマン等と比べてだが)ではなく、彼の葛藤にある。カトリックの教えと、自らの能力と、それに課せられた義務とのせめぎあいに、我々は心を打たれるのだ。デアデビルは、自らの存在意義を疑わない、完全無欠のヒーローとは違う。彼は善悪の境界線上でもがく、あくまで我々一般市民の延長線上の存在なのだ。




2015年10月18日日曜日

「神」を殺せなかった男 - 『復讐するは我にあり』

タイトルの言葉は、新約聖書から取られたものだ。噛み砕いて言うと、「復讐とは人間がすることではない、神のすることだ」という意味になる。本作を観てから、タイトルに込められた意味を考える。原作者の佐木隆三は、なぜこの言葉をタイトルに選んだのか。

劇中で巌は幾つか詐欺事件起こし、計5人の人間を殺す。しかし、浜松の宿屋の女将・ハル(小川真由美)の母親・ひさ乃(清川虹子)にある日、こう言われる。「ほんとに殺したい奴、殺してねえんかね?」。巌は、「そうかもしれん」と答える。確かに、巌の浜松までの殺人遍歴を振り返ると、実に場当たり的に見える。借金に困っていたとか、殺したいほど憎い人間がいたとか、そうした描写は一切ない。ただ人を殺し、金を盗り、逃げる。快楽殺人犯というわけでもない。巌はなぜ、こんな残忍な男になったのか。巌をここまで追い込んだものは何か。

それは、映画のラストに明らかになる。巌の父親、鎭雄(三國連太郎)との面会シーンだ。ここで巌は、鎭雄に向かってこう吐き捨てる。「どうせ殺すなら、あんたを殺しゃあよかったと思うたよ」。『ファイト・クラブ』からの引用になるが、「子にとって親は神」のような存在だ。創造主ともいえる。付け加えるならば鎭雄は、敬虔なクリスチャンだ。巌の数々の犯罪や反道徳的な行為は、自らの「神」ともいえる鎭雄に対する反発の現れだったのではないか。巌自身も違和感をよく分からないと言っている浜松でのハル・ひさ乃の殺人は、自分自身が反発していた「神」になる=父親になることへの畏れが生んだのではないか。これは「父殺し」ならぬ、「父を殺せなかった」男の物語だ。

前述の面会シーンで、神父に頼み自分自身を破門にしてもらったことを告白し、しかしそれでも我々は神を畏れなければいけないと言う鎭雄。反対に、俺には神様は要らないという巌。結局2人の魂は、最後まで相容れなかった。死後、神は2人にどう裁きを下すのか。














2015年10月16日金曜日

薄っぺらい感傷にまみれた正真正銘の「駄作」 - 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

公開当時、左右両派から酷評をくらったらしい。確かに、それも頷ける内容だ。両陣営共に、良くも悪くももっと残酷なまでに強い姿を求めたはずだ。この映画に「鉄の女」と呼ばれた人間の面影はない。先立った夫の影を追い求め、深夜に家の中を徘徊する認知症を患った哀れな女性がいるだけだ。

前述の指摘通り、この映画の問題はこの「鉄の女」の実像(と製作者が考えた、あるいは映画的にそれが相応しいと決定された人物像)にある。人間の価値は、何を考えたかではなく、何をしたかが重要だ、というのはカート・ヴォネガットの言葉だ。サッチャーがしたことは何か。新自由主義の導入、社会保障の削減、フォークランド紛争、人頭税の導入(これは失敗したが)、等々。映画では、これら個々の政策は二の次になっている。家族との関係や、女性が政治の世界に踏み入ることの難しさがまず第一だ。これでは、「伝記映画」としては片手落ちではないだろうか。プライベートな事柄のみに絞れば、ヒトラーやブッシュや安倍晋三だって同情的に描ける。

また、この圧政者と対立する勢力の描写があまりにもひどい。確かに女性が政治の世界で活躍するにはそれなりに苦労があったことは想像できる。しかし、彼女に反対する全ての人物がまるで悪魔のように描かれるのはあまりにも事実を単純化しすぎだ。反対意見を述べる議員も、抗議をする人々も、全て男なのはなぜなのか。分かりやすい対立軸を提示するのも映画の手法的にはアリだが、これは現実に起こったことだ。「伝記映画」であるからには、事実を無視してはいけない。

私個人の映画観・政治観に照らせば、この映画は最悪の部類に入る。アダム・サンドラーの映画の方が100万倍ましだ。新自由主義的な思想がさも美徳であるかのように描かれる演出には寒気がする。フォークランドで無駄死にした兵士に出番は訪れない。コミュニティを破壊されたワーキングクラスの炭鉱労働者もだ。そして、チリの憎むべき「独裁者」ピノチェトとの関係には触れもしない。この映画を見て彼女に同情の念を抱いた人は、ケン・ローチの作品を見てみるといい。虚飾にまみれた世界の裏側を見ることができるはずだ。本作の評価は、その後でも遅くはない。


2015年10月14日水曜日

フィンチャーが提示する、残酷な世界観 - 『セブン』

『セブン』は中学生の時、TVで放送されていたものを鑑賞したのが最初だ。Wikipediaによると、1998年にフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」で放送されたとある。これは私の記憶と一致する。幸運にもその回をVHS(なんともノスタルジーを誘う響き…)に録画していた私は、その後繰り返しそのテープを再生することになる。当時はインターネットが今のように完全に普及しておらず、作品の解釈をwebで検索することもしなかった。今「映画 セブン」で検索すると、“映画「セブン」の真犯人は、サマセット”という記事が3番目に表示される。やれやれ。

その後17年経ち、Netflixにて『セブン』に再会した訳だが、映画の「後味」は中学生の時とさほど変わらない。当時の衝撃が心に強く残っているというのもあるだろうが、やはり映画自体の完成度が高いというのが大きな理由だろう。自分で言うのもなんだが、これまでそれなりの数の映画を観てきた。穴だらけのものから、ほとんど完璧といってよいようなものまで。本作にこれといった穴は見当たらないように思う。ケヴィン・スペイシー演じるジョン・ドゥの手際が良すぎる、モーガン・フリーマン演じるサマセット刑事の定年7日前に事件が起こる、などは人によっては映画の粗と見えるかもしれない。が、私はそうは思わない。そんなことを言い出したら、映画というもの自体が成り立たなくなる。完璧に現実のルールに則った映画が面白いとも限らない。

10数年ぶりに観て感じたのは、本作の世界観の、コーマック・マッカーシーのそれとの類似性だ。キリスト教における「七つの大罪」が殺人の動機として挙げられるが、これは映画を動かす単なるギミックでしかない。ジョン・ドゥがパトカーの中で説教を垂れるが、これも平凡な文句そのものだ。むしろ重要なのは、その悪魔的な犯行の手際だ。名前以外はほとんど不明(もしかしたら名前も偽名かもしれない)、にも関わらず殺人を実行するだけの資金と時間と能力はあり、警察の捜査を見事にかいくぐる知能も持ち合わせている。まるで『血と暴力の国』のアントン・シガーだ。シガーの存在を、マッカーシーは「絶対悪」と呼んでいる。サマセットやブラッド・ピット演じるミルズとその家族は、さして理由があったわけでもなく、不運にもその悪魔と運命が交差し、その犠牲となったにすぎない。デヴィッド・フィンチャーは単なる良く出来たサスペンス以上のものを、『セブン』において提示している。それは我々にとっては認めがたいが、しかし非常に現実的なものなのかもしれない。


2015年10月11日日曜日

責任放棄の成れの果て- 『バトル・ロワイアル』

正直に白状するが、『バトル・ロワイアル』を観たのはこの年になって初めてである。DVDを借りたのでも名画座などで観たのでもなく、『デアデビル』や『NARCOS』のついでにNetflixで「確認」した、というのが私としては正確な表現だろう(ちなみに両作品は共にNetflixオリジナルの作品で、Netflixでしか視聴できない)。

いやはや、これは青少年に見せてはいけない。大人から子供に勧めるなどもってのほかだ。公開当時に話題になった残虐性など問題ではない。幾つかの韓国映画やタランティーノ辺りの作品に比べれば、暴力描写はどうということはない。そんなことはどうでもいい。私が問題だと思うのは、この作品が持つ「無責任」さである。

この映画の有名なセリフに、北野武が言う「今日はみんなに、ちょっと殺し合いをしてもらいます」というものがある。このセリフ通り、中学3年の子供達は生き残りをかけて、それまで友達だった相手に対して疑心暗鬼に陥りながら、殺しあう。このサバイバルは、「無慈悲な大人の世界」のアナロジーなのだろうか?だとすれば、映画のラストでは子供達は大人達を殺さなくてはならない。より真っ当な世界を目指すのなら当然だ。

だが、映画ではそうならない。確かに、北野武演じる「キタノ先生」は死ぬ。だが、その他の大人はそのままだ。もっと悪いことに、柴咲コウの役などが典型だが、子供を悪魔化しているようなフシさえ見える。大人が子供を理解できないのは、いつの時代もだってそうだ(『イージー・ライダー』を見よ!)。理解できないからといって、映画の中で「殺し合い」などという残酷極まる試練を課すことに何の意味があるのか?その中で見える「狂気」など、何の意味がある?私には、勝手な都合で子供を残忍な世界に放つ大人の「無責任さ」が全編に渡って垣間見える、不快な2時間でしかなかった。子供に罪はない。あるとすれば、そうした世界を作った大人の方である。それは現実社会でも、映画でも同じだ。


2015年10月9日金曜日

拡大する「麻薬戦争」、その後の予言 - 『トラフィック』

メキシコ麻薬戦争: アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱』という本がある。イギリスのジャーナリスト、ヨアン・グリロが2011年に発表したもので、アメリカ~メキシコ国境間で続けられている「麻薬戦争」の歴史や、「ナルコ」と呼ばれる麻薬密売組織(カルテル)の内幕についての詳細な記録によって構成されている。本書の敢行は2011年で、翻訳され日本で発売されるまで3年の歳月を要したが、「麻薬戦争」は収まるどころか、一段と過激さを増しているように思う。

そこから遡ることさらに11年、S・ソダーバーグが『トラフィック』を発表したのは2000年だ。時はまだ20世紀。しかしこの時点で既に、『メキシコ麻薬戦争~』で語られた事柄が映画の重要な要素となっているのは、大変興味深い。メキシコの警察・軍内部での腐敗、カルテルから公権力への圧力、証人や要人の暗殺、多様化する密輸方法、政府間での連携不足。

映画のラスト近く、DEA(アメリカ麻薬取締局)側の証人が裁判へ向かう前、捜査官に向かって吐き捨てるように言う。曰く、「オレが持ってたヤクが世間に出回って何が悪い?何人かがハイになってお前の相棒も生きてる」「お前ら(DEA)がやってることは無意味だぜ、むなしいだけ」「最悪なのはムダと知りつつ捕まえてる点だ、道化ってとこだぜ」「勢力の拡大を狙う組織の密告でオレを捕まえた」「(勢力拡大を狙う)麻薬組織の手先と同じだぜ、バカめ」。これはまるで、現在の「麻薬戦争」の状況を予言しているかのようだ。15年経っても変わらない現実、好転する時はやってくるのか。


2015年10月8日木曜日

ハスラー達の新たなロール・モデルとして - 『アメリカン・ギャングスター』

公開当時、「Jay-Zが本作を観て感銘を受けた」ということを聞いて観に行ったが、良く出来た作品という以上の印象は無かった。が、今回観直してみて、その理由がようやく分かった。なぜタイトルに「アメリカン」(黒人の、ではない)という形容詞がつくのかも。

これは要するに、「アメリカン・ドリーム」の話なのだ。ノース・カロライナの田舎に育った黒人の青年が大物ギャング(バンピー・ジョンソン)の下で働き、彼の死後独立し、彼より前から麻薬密輸に手を染めていたイタリアン・マフィアや汚職にまみれた警察を出し抜き、巨万の富と権力を得るという。フランク・ルーカスは実在の人物であり、『スカーフェイス』のトニー・モンタナのようなカリスマ性はなく、ストーリーはやや地味だ。がしかし、彼は実際に成功を収め、その後に続く野心的なアフリカ系アメリカ人のハスラーにとって(良くも悪くも)ロール・モデルとなったのだ。この映画にインスパイアされてアルバムまで作ったJay-Zだけでなく、コモン、T.I.、RZAといった錚々たるメンツがこの映画に出演しているのは、そういった理由からに違いない。

別の側面から見てみると、本作は映像作家としてのリドリー・スコットの才能が(これまた地味にではあるが)遺憾なく発揮された映画でもある。派手なトリップシーンなどはないが、細かいカット割りで観るものを釘づけにする終盤の銃撃戦は見事な出来だ。またニクソンが始め、現在まで続く長い「麻薬戦争」の初期の映像資料として見ることも出来るかもしれない。


2015年10月2日金曜日

狂気の裏に潜むものとは - 『ナイトクローラー』

電車に乗り、週刊誌の中吊り広告を見てみよう。あるいは本屋に行き、政治や社会のコーナーで平積みになっている嫌中・嫌韓本でも構わない。普通の神経の持ち主ならば、見るに堪えない見出しやタイトルばかり。私はあのような類のものには嫌悪感を覚えるし、作り手の神経を疑うこともしばしばである。が、その一方で、そうしたものが我が物顔で流通しているということは、この社会にそれを必要とする人々がいるということを示してもいる。

本作でジェイク・ギレンホール演じるルイスは、犯罪行為を行ってでも過激でスキャンダラスな映像を撮ることに執心する。しかし、それはTVの向こうにそれを見たいと感じる「視聴者」がいるからである。資本主義社会における、「需要と供給」というヤツだ。ということは、ルイスの行動に正当な理由を与えているのは「視聴者」であり、言い換えれば、我々人間の本性や本能、そして野次馬的な好奇心がそれを求めているのだと言える。つまり、ルイスはあなたであり、私でもある。これは現代社会の映し鏡なのだ。